2025年7月21日 お知らせ, お部屋をお探しの方, 不動産をご購入の方, 不動産オーナーの方
1918年(大正7年)、日本全国で大きな「米騒動」が起きました。発端は富山県の漁村だったそうです。米の値段が急に高騰し、困った人たちが「米を安く売ってほしい」と声を上げました。この動きは全国に広がり、都市では米屋への押しかけやお店の略奪なども起きました。最終的には、政府が軍隊を出動させるほどの大混乱となりました。
この騒動の背景には、米の値段だけでなく、人々の暮らしにかかわるさまざまな問題がありました。その一つが「不動産」、つまり土地や家の問題だったそうです。当時、日本は戦争の影響で経済が活発になっていました。工場が増え、農村から都市へたくさんの人が仕事を求めて移り住んできました。すると、都市の人口が急に増え、住む場所が足りなくなりました。家賃も上がり、庶民の生活はとても苦しくなっていったのです。
当時、都市には多くの人が集まり、工場労働者や家族でにぎわいました。その結果、都市部では住宅不足が深刻になり、家賃も地価も上がり続けました。借家人や低所得層はますます生活が苦しくなっていました。特に「土地を持つ者」と「持たざる者」との格差が社会不安を高めていたのです。ただ食べものの値段が上がったことに怒ったのではなく、暮らし全体が苦しくなっていたことへの怒りのあらわれだったそうです。「住む場所」や「地域格差」など、住宅に関する問題が庶民の生活に大きな影響を与えていました。
この騒動の後、政府は人々の生活がもっと安定するように、住宅政策や都市の計画についても見直しを進めました。大正期から昭和初期にかけて、都市計画法(1919年)や市街地建築物法(同年)が制定されました。これらは都市の無秩序な拡大を防ぎ、住宅環境を整えることを目的として生まれたものです。米騒動から1年後にこれらの法律ができたのは偶然ではなく、庶民の生活環境を守るために国が動き出した結果ともいえます。
当時の米騒動は「食」の問題であると同時に、「住い」や「土地」といった不動産に関する問題、さらにはそれを支える法律のあり方にも深く関係していました。大正7年という、いまから100年以上前の『米』を発端にした出来事でした。